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川崎駅前「どぶろく横丁」の形成

川崎駅前「どぶろく横丁」の形成
 
サブテーマ 民族教育の変遷
実施日:2007年8月24日
会場:焼肉店「みよし苑」
語り手:姜秀一さん
報告者:服部あさこ
 



□いわゆる「朝鮮部落」形成のパターン


第一期
 1910年の日韓併合によって、朝鮮が植民地となった後、日本に渡ってくる人が増えてきた。渡ってくる朝鮮人は、基本的に知人・親戚を頼って、彼らの住まう土地に来る。そうして集住地区が形成されていった。このような在日コリアン集住地区は全国にあるが、ことに大阪は地区が多く、それぞれの規模も大きいものが多い。現在も、大阪府の在日コリアン人口は他都道府県に比べ格段に多く、大阪市生野区の猪飼野と呼ばれる地域は集住地域として有名である。
 姜秀一さんの父と祖父もこの時期に日本へ渡ってきて、父は大阪で働いた。

第二期
 第二次大戦前および大戦初期、出稼ぎなどで来日した在日朝鮮人が従事してきた仕事は、主として土木工事であった。また、大戦の中・後期、徴用や強制連行で来日した朝鮮人の中にも、これらの労働に就かされた者は多い。彼らは現場近くのいわゆる飯場に寝起きし、次第にその周辺に集落が形成されていった。
 このように、飯場が元となって形成された集落も各地にある。姜さんによると、川崎では中留、東京では枝川が典型的な飯場部落である。姜さんは一時期広島で生活していたが、広島の安佐、大竹、海田市(かいだいち。のちの安芸郡海田町)、呉などの集落は飯場部落であったという。

第三期
 戦後に形成された集住地区には、東京の御徒町のように、焼け野原となった場所に朝鮮人が自主的に固まりあって住むようになったものや、自治体の政策で、それまで住んでいた場所を立ち退かされ、代替地として用意された土地に朝鮮人が集められた形で作られたものがある。
 姜さんの営む「みよし苑」のある川崎駅前は、後者のようにして作られた集落である。

第四期
 主にニューカマーによって、いわゆる「コリアンタウン」が、現在進行形で形成されている。これは「コリアンタウン」なるものをつくろうという、有力なニューカマーの一定の意図によって形成され、拡大しつつあるものである。
 東京の大久保が典型的なものとして挙げられるだろう。また、姜さんの考えとしては、規模は小さいが川崎の砂子がそれに当たるのではないかという。






□川崎駅前「どぶろく横丁」の形成――一家の生活史から――
 
 姜さんの営む「みよし苑」がある一帯は、現在はタワー・リバークに隣接した、一等地といってふさわしい地区である。しかしそこは、駅前から続く大通りから分岐した小さな道路に面し、再開発から忘れられたように、入り組んだ路地に小さな家屋や店舗がひしめき合っている。
 姜さん一家がここに移ってきたのは、金刺不二太郎が市長を務めていた「1948年か、9年」のことである。市から、それまで暮らしていた、川崎市電の駅前からの立ち退きを指示され、代替地として用意されたのがこの地区である。市電駅前ばかりでなく、駅周辺のいろいろな場所から朝鮮人だけが集められ、それぞれに、土地だけが割り当てられた。広さは五坪、小さな区画では三坪ほどであった。人々はそこに、「勝手にうち建てて、住めちゅうことで、(元の家を)追い出されて」やってきた。上物のない土地に朝鮮人だけが集められ、その地区は今に至っても、地区に面する通りが駅からの大通りから細く分岐した状態であることから、姜さんは、一連の居住地移動は川崎市の差別政策の一環であったと考えている。住み始めた当時、そこは市の土地であったが、のちに市側から払い下げがあり、現在は全て私有地となっている。
 集められた朝鮮人たちは、バラックで家を建て、生計を立てるためにどぶろくを作り、ホルモン焼き屋を始めた。姜さん一家が住み始めた当時は、40軒ほどあった家のほとんどがホルモン焼き屋で、どぶろくも出していたという。姜さんは、「川崎では、どぶろくとホルモン焼きはここが、発祥の地かも分からないぐらい」だと考えている。また、現在は複合娯楽施設「ラゾーナ川崎」がある川崎駅西口にも、20軒程度の「どぶろく横丁」があったという。
 軒を連ねるホルモン屋の、主な客層は、市役所職員、競輪・競馬帰りの男たち、そして肉体労働に従事する人々だった。当時は味の素や明治製菓の工場があり、労働者も多かった。開業当時まだ少年であった姜さんは、どぶろくの値段は覚えていないが、1960年に嫁いできた妻は、結婚当時どぶろくが1杯40円、上澄みが1杯70円、ホルモンが1人前150円だったと記憶している。労働者たちが気軽にやってきて憂さを晴らすのには手ごろな価格だと言えるだろう。
 当時の川崎駅前は、暴力団の事務所もあり、「ヒロポン打ったヤクザが出歩いていたり」する、「今なんか考えらんないぐらい怖いとき」だった。姜さんは、酔ったヤクザが姜さんの父の顔にどぶろくの丼を投げつけたことを覚えている。また、たびたび抗争で発砲事件もあった。
 当然のことであるが、どぶろくは密造酒であるので、たびたび手入れが入った。そのような時、警察へ行って始末書を書いてくるのは女たちだった。男が行けば手ひどい扱いを受けるからである。あるときなど、姜さんの母親が入院加療中であったため、身重の妻が警察に出頭したこともある。
 姜さん一家は、どぶろく作りを1963年ごろまで続けていた。その間に、地区から出て行った人の土地を買い、上物の壁を取り払って家を繋げるなどして、土地と店舗を拡大した。当初、自宅近くの多摩川沿いの土手に家を借りてどぶろくを造っていたが、店舗兼自宅の改装を機に、その二階の天井裏に「どぶろく部屋」を作ったという。ちなみに、その部屋は現在は塞いでしまい、見ることはできない。裏庭に花器台などとして使われている大きな甕が、その時代を忍ばせるのみである。今や、この地区で焼肉店を営むのは「みよし苑」のほか一軒である。どぶろくをやめて正規の焼肉店にしたことや、時代の移り変わり、駅周辺の区画整理などによって顧客も減少し、客層も変わり、今は、たとえば味の素の従業員でも、工場労働者ではなく事務方のホワイトカラー、グレーカラーの人々がやってくるという。
 われわれは、終戦後の一時期、闇市が近辺にあったのではないかと質問してみたが、それについては姜さんは記憶にない。姜さんの考えとしては、そのような闇市があったとすれば、次第に商店街として変化していくので、現在のJRの駅前にあったとは考えにくいという。


□民族教育の変遷
 
第一期
 在日同胞への民族教育の第一期は、在日本朝鮮人連盟(朝連)があった時期、当時の知識人たちによって運営された、「国語講習所」と呼ばれる自主的な教育活動であろう(川崎では、大島小学校の焼け跡に作られた講習所がそれに当たるでしょうか?)。教師は旧制中学校を卒業した人や、そうでなくとも朝鮮語をよくする人で、教材も、教師が独自に作ったものだった。
 在日コリアンは、いずれ祖国へ帰る日のために、朝鮮語を知らない子弟を、母国語を学ばせるために通わせた。
 姜さんが受けた初等の民族教育はこの時期のものである。小学校5年生で終戦を迎え、座間市から、「大塚本町」の「大丸部落」(現在の神奈川県海老名市粕が谷、あるいは綾瀬市寺尾台周辺と思われる)にあった朝鮮語講習所に通った。1947年からは、東京都北区十条にできた中学校(現在の東京朝鮮中高級学校)へ、座間から3時間かけて通ったという。学校とはいっても、きちんとした校舎があるわけではなく、バラック建ての小屋のような「校舎」に集まり、表に椅子を出しての青空授業であった。当時、中等学校には、1年生だけで8クラス、380人ほどの生徒がいたという。
第二期
 1949年、朝連及び民青の解散命令が出され、学校も強制閉鎖された。姜さんによれば、朝鮮学校閉鎖から朝鮮総連の結成される1955年までの間、民族教育はおおむね4つの形態に分けられる。1)第一期に存在した自主学校のうち、教育機関として認可され存続したもの。2)公立学校の分校の形態で母国語教育が続けられるもの。3)いわゆる「ウリマル学級」のように、公立学校の課外で在日コリアン子弟を対象に授業が行われるもの。4)自主学校の形態に回帰したもの。

第三期
 1955年の朝鮮総連結成後、在日同胞が資金などを出し合って創設・運営する自主学校。朝鮮総連系の朝鮮学校が大多数を占める。川崎区の朝鮮初級中級学校もこれにあたる。
 第一期の自主的教育との最大の相違点は、教材が祖国の検定を受けることである。そのため、朝鮮学校は共和国を支持する内容になり、結果的に民族分断の維持にはたらく。


□これからの民族教育
 
 在日三世、四世、五世と代が革まり、またニューカマーが増加する今日、南北それぞれの祖国の意思に縛られない、在日同胞の自主的な民族教育がいかにあるべきかが問われているだろう。
 自主学校がつくられた時期に資金を提供してきた在日同胞の商工人たちも、今はそこまでの余裕がなく、民族学校の教師たちも充分な報酬が得られない。すなわち、新しく何かを作ることは困難なのである。父兄の同胞、ニューカマーの教育者、日本の教育者、有識者などによる運営委員会を結成し、今ある民族教育をどのように変化させ、時代に沿ったものにしていくか、検討されるべき時が来ている。

引用URL
http://halmoni-haraboji.net/exhibit/report/2007kikitori/person03.html




2019/05/16 17:56
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